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⚫️julius bien⚫️

ユリウス・ビエン(1826−1909)


略歴

ユリウス・ビエンは、ドイツ出身のアメリカの石版画家。オーデュボンの『The Birds of America』のリトグラフ版も制作した石版画家の権威とも呼ばれるアーティスト。

 ビエンは、旧ドイツヘッセン州のカッセル近郊の小さな町ナウムブルグで、芸術家と教師の子供として生まれました。カッセルの美術学校、フランクフルトのシュテーデル研究所でモリッツ・ダニエル・オッペンハイムの教えを受けたものの、他の多くのユダヤ人同様、1848年の革命では自由主義者の側で戦い、1848年か1849年にニューヨークへ逃亡します。>

 ニューヨークに拠点を構えたビエンのスタジオでは、都市景観や地図、機械や建築の図面、広告など、どんな仕事でも引き受ける姿勢を示していましたが、全体として彼の作品は

 
「技術的に優れていること、印刷媒体を柔軟に操れること」
 
が特徴的でした。
 
 南北戦争後は連邦政府でも働き、「新しいレベルの科学的正確さ」を持つ地図の印刷技術者として注目され(1902年のコネチカット州の地図は「望むべきものすべて」と賞賛された)、多くの賞を受賞し、「ニューヨークの著名な市民」となり、全米石版画家協会の初代会長としてその名を世界的に知られることになります。
 
 1854~1857年と1868~1900年には、ブナイブリス会長としてその国際化に大きく貢献し、石版画家の第一人者とも呼ばれるアーティストです。


リトグラフ(石版描画)

 ドイツで学んだクロモリソグラフィーの専門家であったビエンは1850年代後半、オーデュボンの末っ子であるジョン・ウッドハウス・オーデュボンの依頼を受け、『アメリカの鳥』の新しいフルサイズ版(定期販売版)を制作することになりました。

 初版は白黒で印刷し、水彩絵の具で仕上げていたが、新版はより正確な色彩を約束して制作にとりかかります。リトグラフは銅版画とは異なり、よりソフトな表現が可能だからです。

 技法としては、銅版画の原版を使い、石に絵を転写する方法でした。6色しか使わず、色を重ねたり、点描したりすることで、多様性を持たせました。しかし、途方もない手間と時間がかかるため、結局、435枚の原版のうち150枚しか作れず、1860年に出版が中止されます。

 1862年にはジョン・ウッドハウス・オーデュボンが負債を抱えながら亡くなり、完成の目処が立たず、戦時下で経済的にも大きな不安のある時代に突入します。同時に、スペンサー・フラートン・ベアードがより科学的な正確さを導入したことで、鳥類学の嗜好も変化していきました。

 しかし、ビエンが制作したこれらの出版物は、歴史的にも重要な出版物となります。彼の図版は「クロモリトグラフィーの最高水準を示すものであり、現在でもこの媒体のランドマークとして存在する」と言われています。

 ビエンは、民主主義社会の大衆に情報と美的喜びを提供するために、直感的な芸術性で利用可能な技術の限界に挑戦した人物としてこの世を去った後も、多くの画家の見本となった人物です。

 
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